【重要】CGIBOY日記帳 6月末サービス終了のお知らせ


酒楽苦

 

ホームページ一言メッセージ他の日記を読む

更新履歴

2005,9,12 5年目の9.11
2005,9,5 半醒半睡
2005,9,4 社会(についての)学と希望の原理
2005,9,1 お久しぶりです
2005,7,23 「地震雷火事オヤジ」ってオヤジがいるのかと思ってました
2005,7,7 Night divides the day

前の月

9月の日記

sun

mon

tue

wed

thu

fri

sat

       

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

26

27

28

29

30

 
             

5年目の9.11 2005,9,12
 自民党圧勝。
 この無力感はかなり決定的なものではないだろうか。
 かなり危険な状況だろう。讀賣新聞の世論調査で、「自民党は勝ちすぎたと思う」と答えた人が過半数いた、との結果が出ていたが、テメエで投票しといてなにが「勝ちすぎ」だ。
 時既に遅し。事実上、どのような法案も成立してしまう。郵政法案も然り。それが日本国民の「民意」なのか。
 公明党の得票、15000票ほどが、自民の躍進の「底上げ」をしていたとの新聞記事もあった。ここははっきりと、「公明党は害悪です」と書いたビラを撒くぐらいのことをしなくてはならないかもしれない。
 「たしかな野党が必要です」。そうなのか? 政権奪取を夢見ることさえできなくなっている。
 「この国には何でもあります。軍隊もある。だけど、希望だけがありません」という世の中にしないために、今できることは何だろうか。

半醒半睡 2005,9,5
 こうやって日がな一日引きこもっていると、夜1時をまわったあたりで本を読むのも疲れて、パソコンをやるにも眼を使いたくないしということで酒を取り出して音楽でも聴きながらじっと妄想にふけることになる。近くのバーに行こうにも雨がひどい。行きはよいよい、帰りは・・・。ということでタバコは我慢することにして飲み始める。
 酒を飲み始めたころは、当然といえば当然の話だが一緒に飲んでくれる人はほとんどいなかった。当時、一緒に飲む人なんていうのは誰でもよかったはずだ。そらもちろん、革命とか自殺とか天皇とか、はたまたビートルズとかYMOとかいう単語に触手の動く?人がいいのはわかっていたが。なぜ誰でもいいかといえば、とりあえず酔っ払えればそれでよかったからだ。どれだけ面白くてタメになる話を聞かせてくれようと、目の前で裸になってご奉仕してくれる女性がいようと、こちとら酒の覚えたてなのである。アルカホールの陶酔に泡を吹くのが最上の楽しみだったわけだ。実際、ほとんど酒の飲めない同級生を連れまわしては、向こうはウーロン茶一杯、こちら熱燗の二合徳利がひい、ふう、みい、よう・・・(そうだ、当時は日本酒党だった)。そう考えると、酒の量を第一義としなくなった今となっても共通するのは、酒だけを相手にして飲んでしまうことがかなり多い、ということであろう。自分と酒の間をのみ往還する悪循環。しかし、家にいれば酔いつぶれる前にそのまま寝るだろうし、バーにいるときは心地よい音楽と、ツマミを口にほうばるのと同じようにして会話できる客がいるために正気を保てる。どうやら私はそういう独り酒が好きらしい。静かにしている分にはいいだろうが、酒の道の先達には「あんまりいい酒じゃないね」と言われてしまいそうである。
 それで、昨日。台風の影響で豪雨で外に出られず、音楽でも聴きながら晩酌をしていた。酔いが深まってくると、単純に外界からの刺激が鬱陶しくなるということもあろうが、パンクなどよりは静かな音楽が聴きたくなる。そう思った刹那に脳裏に響いたのは、「君の一番疲れた 顔が見たい 誰にも会いたくない顔の そばにいたい」という歌詞をもつ、フィッシュマンズの『それはただの気分さ』だった。この曲は小品ながら、一種の情感を歌い上げているという点で偉大な名曲と呼んでさしつかえないだろう。この曲が収録されているライブ盤『8月の現状』では、『それはただの気分さ』の後に『SEASON』というフィッシュマンズ史上、いやポピュラー・ミュージック史上に残るであろう名曲が収録されている。この曲が始まると、それを聴く者の周囲には初秋の風が吹き始めることだろう。

社会(についての)学と希望の原理 2005,9,4
 この21世紀に「希望の原理」、いや「希望という原理」は可能だろうか。
 希望とは、一個人の内部に、発話や行為としてさえ決してあらわれない、単純で未分化で素朴で幼稚でさえある願望として抱かれるものでもありうるが、しかし将来への希望を抱き、臆面なくそれを語る個人がたくさんいるとすれば、おのずとその社会の性質が見えてくることになるだろう。また、希望は社会の集団凝集性の高低に関与するものでもあるだろうし、社会の側が個々人に対して「希望の原理」を提出してみせる場合もあるであろう。個々人が各々の未来を思い描くとき、社会的要因の一切を無視したならば、それは当人にとって心地よい桃源郷の見取り図ではあるにせよ、「夢想」の域を出ることはないだろう。この意味で、希望とはすぐれて社会学的なテーマになりうると考える。希望の諸形態を観察することで社会への展望もひらけると考える。
 ここで、「希望の原理」と書くのはもちろんエルンスト・ブロッホの『希望の原理』(邦訳全3巻、白水社)を意識しているからだ(岸田秀にも同名の著作があるが)。私は、この大部な書物を読んでいくことをライフワークとしたい(ブロッホの『ユートピアの精神』の訳者である好村冨士彦の著作も参照しつつ)。ブロッホは終生マルクス主義者であったため、「(マルクス主義以外の)科学は未来を持たず、他の未来は科学を持たない」ことを信じて、ソ連が崩壊するのもベルリンの壁が壊されるのも見ずに亡くなったが、今になってみれば、マルクス主義がいかにして「希望の原理」を提出しえたのかを分析していくのも悪くないだろう。そのためには、マルクス主義をよほど深く勉強していかなくてはならないだろうが。
 村上龍の『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、2000年)あたりをひとまず嚆矢としてみようか。村上龍のその本の「この国には何でもある。しかし、希望だけがない」という言明は、当時話題をさらってテレビで特別番組が組まれるほどだった(当時高校生だった私はそれをよく覚えている)。その後、21世紀の幕あけには「結局、それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうだった」(ジャン・ボードリヤール)ともいわれた事件がアメリカで起こった。死のさらに先、彼岸に見出された価値=希望は生をも超越する。「死に対する勝利の告知」としての希望のかたちは、ひとつではありえなかったのだ。「悲しみ/憎しみの連鎖」は断ち切れないのか、と「私たち」は無力感に陥った。そして現在、「希望格差社会」といわれ、「ニート」といわれ、社会問題になっている。「ニート対策」に国家予算が組まれるほどになってしまっている。無作法に並列させてしまったが、さてこれらはまったく無関係に存在する諸事象だろうか。私にはどうもそうは思えない。
 いい学校に入ればいい会社に入れて、いい給料がもらえる。いい妻(ここで「もしくは夫」とはできない)、いい子供、いい家庭、いい家、いい車、いい生活、いい老後・・・。その連関が見えた時代はよかった。ひとまずはそこに乗ればよかった。ところが幸か不幸かそれが壊れてしまった。価値観の多様化、個性の尊重、細分化。いやあ、戦後って本当にいい時代ですね、なのか?
 かつて希望はどう語られてきたのだろうか。個々人の希望などは全て飲みこまれてしまうかたちで進展した、「戦争」の時代はどうだったのか。「沖縄」の人々はどうだったのか。「高度経済成長時代」はどうだったか。本当に「いい学校に入れば・・・」だったのか。そこに亀裂は生じていなかったか(「まなざしの地獄」!)、検証してみたい。「バブル崩壊」前後の場合ではどうだったのだろう。「希望言説」の変遷を見てみたい。エーリッヒ・フロム、プリーモ・レーヴィを読むことが、たとえば参考になるだろう。迂遠かもしれないが、エマニュエル・レヴィナスの思想、希望についての宗教社会学的考察からも得るところがあるだろう。また、社会はどう希望を提示してきたのだろうか。希望の言明は個人がなすものであるが、たとえば大学紛争の時期など、それが「一般現象」として観察できるような場合はどうであろうか。そもそも、社会が希望を提示するときにはどういう表象作用がはたらくものなのだろうか。社会が希望を提示するとき、それを分析することで(知識社会学的な分析が有効かもしれない)、その社会の特質が明らかになってくるのではないか。
 また、ブロッホの話にもどるが、彼は音楽の最も内奥にある機能をしっかりと把握していた。「永遠的瞬間」の現出、内外の統一感情の発生、ユートピア的時空間の形成。音楽がそのような側面をもつものである限り、人に希望を提示する機能も持ちえよう。そんな音楽は人にどう聴かれてきたのか。そして音楽を聴く耳は、どのように変容してきたのだろうか。たとえば、演歌しかないところに突然ビートルズがやってきたとしたら、どうなるか。アプローチの方法もわからないほど雑駁なテーマだとは思うが、「耳の変容史」にはかねてより大変興味があり、調べてみたい。これにはひとまずアドルノが参考になるだろう。

 さて、ここで話はまったく変わってしまうけれども、「学際」といわれ「マルチ・ディシプリン」といわれる。かつて、リアルタイムではないにせよ「ニュー・アカデミズム」に触れた人間としては耳になじみやすいことばだ。なるほど、そういうものかと思って大学に入り、社会学などというものを専攻に選んでみると、「現代社会は変動が早い。古典を読んでもその動きをとらえることはできない」などといわれ、なるほどそういうものかと思っ(てしまっ)た。ところが今になってやっと気づいたことは、当たり前のことだがそれだけでは済まないということだ。しかし、そうは言っても、「学問体系」なるものは崩壊してしまったのだろうかという疑問をやはり抱いてしまう。「専門性」とはいったい何なのかと思ってしまう。この疑念を払拭したい。そのために、どこまで有効かはさておき、社会学の学問体系を謙虚に徹底的に一から学びたい。そこからしか始まらないのではないかと思っている。私は早稲田大学の第一文学部に在学中だが、そういう場所にいて社会学などというものを専攻していると、ともすると関心領域が横すべりしていき、専門人よりはディレッタントを、と思ってしまう(もちろん、もともとそういう気質がないではない)。しかし省みれば自分の内に芯となるものがない。私の周囲にもそういう人は多いのではないかと邪推するが、早稲田の「在野の精神」を誤読し就職せず(できず)、生涯一書生だとうそぶく。「希望の原理」が必要なのは自分自身だけなのかもしれない・・・。いや、将来への見通しが以前のように容易にはたたなくなっている時代だからこそ、進歩が希望であるとは思えなくなっている時代だからこそ、少子高齢化、人口問題、環境問題などが希望なるものをすべて打ち砕いていくような時代だからこそ、「希望の原理とは何か、それはいかにして可能か」と問うていかなければならないのではないだろうか。
 人々の生きる指針、希望を社会が明示しうると単純に信じるのは幼すぎるかもしれない(実際、そう信じてはいないけれども)。「愛と希望」というように、「希望」などということばは微苦笑とともにでないと言えなくなっているかもしれない。なぜそうなってしまったのか。
 日本と中国と韓国が共同編集し、今年出版されたその三国の近現代史についての歴史教材のタイトルは「未来をひらく歴史」となっていた。まさにそのような「歴史」として、本来「希望」はあるはずなのである。

お久しぶりです 2005,9,1
 だいぶたまってます。


 若松孝二監督『エンドレス・ワルツ』。主演は町田康。これって町蔵ファンは観てるのかね。オードリー・ヘップバーン主演『おしゃれ泥棒』観る。『セッション9』観る。
 スパルタ・ローカルズ『dreamer』、曽我部恵一『ラブレター』、フリクション『79ライブ』、X−Ray spex『the anthology』、the boys『the boys』、NEW ORDER『technique』『brotherhood』『low life』、George Harrison『All things must pass』『cloud 9』、coldplay『live 2003』、New york dolls『new york dolls』、The exploited『punks not dead』買う。

 高田里恵子『グロテスクな教養』(ちくま新書)、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(青土社)、E・レヴィナス『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)、ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』(ちくま学芸文庫)、P・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)、合田正人『レヴィナス』(ちくま学芸文庫)、高橋たか子『誘惑者』(講談社文芸文庫)、魯迅『評論集』(岩波文庫)、ホイジンガ『中世の秋』(中公文庫)、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)、千田夏光『従軍慰安婦』(講談社文庫)、井上俊他編『命題コレクション 社会学』(筑摩書房)、佐藤泉『戦後批評のメタヒストリー』(岩波書店)、管孝行『身体論』(れんが書房新社)、S・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』(朝日新聞社)、斉藤美奈子『読者は踊る』(文春文庫)、坂口安吾『日本文化私観』(講談社文芸文庫)読む。

 グリーン車にはじめて乗った。
 バンドサークルの合宿に4年連続で参加。ホッピー14本、焼酎6.7リットル、ウヰスキー三本、ウォッカ2本などなど・・・、を多量に消費。ドアーズとニルヴァーナをやってものすんごく楽しかったです。
 胸部レントゲンを撮りましたがなんともありませんでした。
 ZAZEN BOYSライブ@日比谷野音。セッションバンド化しつつあり、もはや向井はドラマーにアヒト的要素はまったく求めていない様子。以前なら絶対にドラムのオカズが入った部分に、それがない。手数の多さよりはバンドアンサンブルか。聴こえない音を意識させる、という方向性は面白いのでもっとやってもらいたい。

 中2から行ってる地元のバー、コペンハーゲンズバーに憂さ晴らしに行くも、隣のオヤジに話しかけられて酒の味もドアーズのライブ盤も台無しに。だからあ、ジム・モリスンが雄たけびをあげているときに話しかけんじゃねえYO! カウンターバーにいるときくらい、静かに飲ませてもらいたいものです。そしたらママさんのカズちゃんが、「オヤジ連中はストレスたまってんのよ。他で話せる場所もないし」と。なるほど。
 2007年問題というのがあって、団塊の世代が一斉に引退していく、というわけだが、そのうちそういう人たちだけを相手にするバーなどができそうですね。あのヒトたち、やっぱ金持ってるからなあ。バーなんかで一番金を使うのもあの年代だ、とのこと。・・・あ、ホンバンもオッケーですか・・・。いやあ、やっぱあの世代はね・・・。


【重要】CGIBOY日記帳 6月末サービス終了のお知らせ

タレントプロフィールラッキーBINGO楽天イーグルスツールバーフリーメールニューストピックス