☆★☆旅の空☆★☆
★Under the Sky around the World★
山岳ライター・柏澄子の毎日。仕事部屋の様子、取材の話、クライミングや登山、旅の話などなど。





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2008,8,19 好きなことは書けない
2008,8,18 広がる年の差
2008,8,17 季節が変わって
2008,8,16 家シゴト
2008,8,15 夏の作品
2008,8,14 山ごはん

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好きなことは書けない 2008,8,19
 PC不調事件などもあり、てこずっている原稿1本。
 好きなことほど書けない。書いてみて全てが崩壊していることがわかった。こんなんでは、編集者はおろか読者もエライ迷惑だろう。夏休みの作文につき合わされているようなものだ。

 いまも悩みながら書き直し。

広がる年の差 2008,8,18
 終日編集作業をして、夕方岳人へ。デザイナーさんに初校ゲラを戻し、いくつか変更のお願いもした。この先、彼にとってもこまごまとした作業が続く。ほか、表紙の打ち合わせ。

 その後、有楽町に出る。首の皮一枚で我が部はつながった。
 来春卒業予定の4年生部員一人のところに、1年生部員が入ったのだ。
 しかも、「山に登りたい」「岩に登りたい」「雪山にも登りたい」という意欲ありあり。リスクの伴う部に入るのに、やる気があるのは当たり前かもしれないけれど、そうとも限らないのが現実。なんとなく入ってみる、友達に誘われたから、という人も中にはいるのだ。だから、部員が少ないことも(つうか、来春からまた彼ひとり)なにも気にならないといって、登山そのものに興味を持って入ってくれるのは、とても貴重。

 彼と話をしていて気づいた。ふた周りとは言わないけれど、それに近い年齢差があるのだ。つまり20歳以上。我が部初の平成生まれ部員。
 当然のことであるが学生と私の年齢差は年々広がっていく。若手OBに役目を譲りたいけれど、代が途切れた我が部、貴重な人材は遠方に住んでいることが多く、こんな歳になっても学生と付き合っている。
 年齢差については、しばらく黙っておこう。

季節が変わって 2008,8,17
 昨晩、夫の帰宅を待って近所の焼き鳥屋へ行く予定だったのが、突如の大雨。あまりの豪雨に家を出るのをためらってしまった。雨脚が幾分弱まってから出かけたが、そのときにはもう、空気感が秋だった。
 今日の東京も涼しい。季節が変わってしまったのかもしれない。
 ここ数年、夏には四川省の山奥にいることが多かったので、こんな季節の風の匂いをかぐと、彼の地の風景やチベット人たちのことを思い出す。
 匂いや音(音楽)によって、過去の記憶が呼び起こされることもあるけれど、私は断然、空気感。風や空気の肌触りによって、過去の記憶がよみがえる。

 仕事も季節の変わり目。
 現在進めている雑誌の仕事は、11月号。すっかり秋も深まった頃の話題になる。ほかはスキー雑誌の原稿締め切りもやってきた。もうあと少しで初雪なんだ。

家シゴト 2008,8,16
 書籍と雑誌の仕事を交互にやりながら、1日が終わる。

 普段登山をしない人と山に行くとオモシロい。今回もいろんな発見があった。普段から草木に親しんでいる彼女は、山の草木にも造詣が深くて、ひとつひとつ丁寧に観察していた。そして自然のありがたみを実感していた。私は、感動と感謝が薄れているように思う。

 もうひとつオモシロかったのが、彼女が山ヤたちのファッション・チェックをしていたことだ。全て彼女の言うとおり。なぜ私たちは、山に行くとなると、変なコーディネートになっちゃうのでしょう? 日本人はカジュアルな服装が苦手なのだろうか?
 デザインの仕事をしている彼女は、どーしても彼らのおかしなコーディネートが気になって仕方がないようだった。機能性を重視するからといっても、いまどきは選択肢が狭いわけではない。

 彼女が「あの親子はおしゃれ」と言ったのは、30-40代の男性とその息子。息子の服装はウル覚えだけれど、父の服装は、上がきれいな黄緑色にグレーのラインが入ったホグロフスのTシャツAZER TEE。下は、メーカーはわからなかったけれど、同じくグレーのパンツ。がっちゃん曰く、ブラックのパンツは×。色が強すぎてほかとのコーディネイトがうまくいかないと。私もそう思うが、無難なブラックは必ずメーカーが作る色だ。
 さらに彼は、グレーのキャップをかぶり、フレームレスではないのだけれど赤いラインがちょっとだけ入ったスポーティなサングラスをしていた。

 もうひとりは明神で見かけた50-60代の女性。彼女は私も目に留まった。薄いベージュのチノパンにオフホワイト地に小花が散っている透けた涼しそうなブラウスを着ていた。登山用の服ではない。上高地から明神か徳沢あたりまでを往復しているのだろう。背負っているのはドイターのザック。おそらく今回のために新調したのだろうけれど、赤にグレーのさし色。その赤がブラウスの小花の赤とそろっていて、いい感じだった。
 がっちゃん曰く、服装のコーディネートはできていても、ザックを背負うとがっくりの人も多いようだ。ザックは面積が大きいから、色使いが厄介である。

 それぞれのモノをそれぞれが必要になったときに買うから、いくら自分のワードロープを把握していても、年によって流行の色が違ったり、なかなかあわせ辛くなるのは現実。しかし、私も一応雑誌を作っている身としても、もう少し気を使うことにした。

 DIVA仲間はなかなかみんなお洒落さんたちなのだ。

 岳人9月号に拙著を2冊紹介していただいた。『ドキュメント山の突然死』と共著の『これで安心山歩き基本ハンドブック』だ。端的に要点をついた紹介を書いてもらって感謝。
 ほか、日本ヒマラヤ協会の会報誌である『ヒマラヤ』9月号(No.442)にも、山森さんが『ドキュメント山の突然死』紹介文を書いてくださった。2003年秋にチベットのフンチ(7011m)で血栓症になった会員のレポートと一緒に紹介されている。高所登山で血栓症になる人は意外にも多いとみているが、そのリスクを認識している人は少ないかもしれない。死に至ることもあるので、高山病同様に、高所登山に向かう人は知るべき内容。

 ところで、岳人。9月号から一部の紙が変わった。表紙は光沢のないマットなものとなった。写真の絵柄によるのかもしれないが、今月号は写真の発色もよく、いい感じだと思った。

夏の作品 2008,8,15
 ちょうど1週間ほど前に、テレマーク仲間であり友人の福島のやっさんから届いた桃たち。それはそれは旨くて美しい。毎日毎日いただいている。山にももって行って、がっちゃんとふたりで「やっさん、ありがとう」と言って食べた。

 この桃はやっさんのダンナさんの実家で作られたものなのだ。カリっとした歯ごたえで、がっちゃん曰く、「本当に桃らしい味がするよね」と。昨夏もいただいて以来、私はすっかりこの桃のファン。
 「大切な作品を嫁に出す気持ちはいかに?」と聞いたところ、「大切な娘達を喜んでもらって嬉しい」と言っていた。手塩かけて育てたすばらしき、芸術作品。
 毎日、お天道様と作り手のかたがたと、やっさんに感謝しながらいただいている。

 夕刻、岳人へ。お盆のさなか、霞ヶ関の街も岳人編集部も人が少なくて静かだった。編集長とハットリさんと打ち合わせ。
 その後、恵比寿へ野暮用。

山ごはん 2008,8,14
 山から戻った次の日は、千葉の実家へ。一人暮らしの母に会い、いくつかの野暮用を朝から夕方までかけて片付ける。けっこうハードワーク。

 今回の山登りの食事は、がっちゃんと私で半分ずつメニューを考え、食材を持参した。写真は、山研で食べたラタトゥユ(ワタシ担当)とがっちゃんがもってきてくれたレバーペーストとチーズとクラッカー。めちゃくちゃ旨かった。

 ほか、がっちゃんが担当した食事は、以下。
夕飯:パエリア風ご飯(アルファ米使用、具はサラミ、ドライトマト、ほか小分けしてパックされた水煮の野菜たち)、にんにくとベーコンで炒めたズッキーニのサラダ
朝飯:チーズ風味リゾット(アルファ米使用、ドライポルチーニを水で戻して具とする)

 私が担当したものはいわゆる山ヤ的発想メニューなので報告するまでもない。がっちゃんの考えたパエリアとリゾットは、アルファ米(白米)を規定時間よりも短い時間だけ熱湯につけ、その後即席のソースでご飯を炒めるというもの。アルファ米のぱさぱさ感がパエリアやリゾットにはちょうどよかったかも。

 まったく、オーロラさんに「突撃、隣の山ご飯」をやってもらいたかったぐらいだ。

 南稜で、大学生のパーティを3つ見かけた。そのうちのふたつは同じ大学であり、大人数のためにパーティを分けていたようだ。登山のサークルの様子。あまりにもご丁寧に、ほとんど全ての休憩箇所が、落石の危険のあるところで、そこに背を向けて大勢で休んでいるのには驚いた。きっと、山岳部同様、部員の減少などの理由により、世代交代や技術の伝承ができていないのかもしれない。
 登山のクラブは、先輩から後輩へと技術を伝えていく必要があり、また山の何が危険であるかも、現場で伝えていかなければならない。しかし、部員が減少すると全学年の部員がそろわなくなり、4年生、3年生、2年生、1年生、それぞれの役割が崩壊する。一度部員構成が崩壊すると、技術伝承は非常に困難で、多くの場合、監督・コーチやOB会がかなりの力を貸さないと難しい。

 今回出会った学生達は、(現時点では)部員がたくさんいたので部員現象が原因ではないのかもしれないが、先輩から技術や経験が受け継がれていないのは確かだった。下りでは県警に注意されていたけれど、その内容を理解していたかどうかはわからない。
 私も、いつ注意をしようかと迷っていた。見過ごすこともできるけれど、大事になってからでは遅いからだ。

 また、これは涸沢から下山するときのことだが、落石と滑落の危険のあるトラバースの箇所で(「落石注意」の看板まである)、私たちがそのトラバースに差し掛かり、あと少しで終わろうとしているところに、大学生のグループがわたってきた。さすがに私は、「先に渡らせてください。あと一人来ます」と言った。登りが優先なのは原則だけれど、あとちょっとでわたり終わるのだし、こんなリスキーなところで立ち止まったり、大勢のグループとすれ違ったりしたくない。彼らとて、安全なところで待機したほうがずっとよい。

 一見、なんてことはないルートだけれど、場所によってはいろんな危険が隠れている。いずれも、落石が起きるのはまれであるが、その危険があることをわかっていながら、わざわざ危ないところに身をおく必要はない。

 ある同世代の山岳ガイドさんが、ちょうど同じ頃涸沢でガイドをしていたようで、登山者達の登りっぷりについて短文を、ブログに書いていた。
 曰く、登りは時間をかければ誰でも登れるけれど、下りは別問題であると。下りの脚力と技術があるのかどうか、今一度、自分を省みるように、というようなことだった。
 まったくその通りだった。いくらロープなどを持っていたといえ、天候が安定していることがわかっていて長時間かけたといえ、初心の友人に北穂はキツかった。南稜は絶対に落ちちゃいけないところが数箇所あるし、一定の斜度が続くので、連れて行った身としては反省している。

夏の終わり 2008,8,13
 今日も早くに起きて、パッキング。
 6時ごろ涸沢のテンバを出て下っていくと、山岳部の先輩のタカヒロさんとばったり会った。卒業以来ほとんど登山をしていなかった彼は、何を思い立ったのか今夏は、徳沢にテントを張り、山登りをしている。一昨日は蝶ヶ岳に登り、昨日は屏風の耳に登ったという。屏風の耳を選択するあたりが渋い。今日は徳沢から奥穂を往復するそうだ。「空身は楽でいいね。カシワは涸沢までテント上げたの? オレにはもうそんなことはできないよ」と言っていたけれど、そんなことはない。
 何よりも、卒業後20年近く経ち、その間登山を中断していながらも、一人で山に来て登っていること自体がすごい。軽やかな歩きっぷりで登っていった。

 私たちが山にいる間に、二晩とも雨が降った。とくに昨晩の雨は長かった。そのひと雨ひと雨で、季節が少しずつ移り変わってきたようだ。
 南稜のチングルマはほとんど終わっていたが、涸沢下部はまだ花が着いていた(写真)。ゴゼンタチバナも咲いていた。
 風が幾分涼しく、秋の気配を感じる。
 横尾から先は、緑が濃く、まだまだ夏の名残があった。

 上高地でビジターセンターに寄る。
 田淵行男さんのスケッチがすばらしかった。
 ほか、「山に向かう心」(ウル覚え)というようなタイトルの写真展が開催されていた。有名な山岳写真家の方々の作品が多数並び、山岳小説や随筆などから名文が添えられていた。けっこうオモシロい企画だった。山本和雄さんの写真が見られるのは珍しいことだし、水越武さんの作品は若い頃のモノクロのものだった。ほか、大判のカメラで撮影した岩橋崇至さんの作品も印象的だった。

 ビジターセンターのあとは、五千尺ホテルの喫茶室でケーキを食べて、インフォメーションセンターでシャワーを浴びて、松本へ。あずさに乗って帰京。
 車中は、いつものガールズトーク。

近くて遠い山 2008,8,12
 本格的登山がはじめてのがっちゃん。今回の山行は、涸沢でキャンプをして山登りをしたいという彼女の希望から計画したのだ。
 ルートの難易度から考えると、初心者には北穂の南稜よりも奥穂に向かうザイテングラードのほうがちょいと安全だろうけれど、山頂からの景色を考えると、北穂がよいという私の個人的意見で北穂に決まった。登ってみて再認識したのは、初心者にとって気が抜けるところが少ないコースだったことだ。
 万が一に備えて、スリングとカラビナ、短いロープを持参した。

 朝5時半、朝日を浴びる南稜をゆっくり登り始めて、山頂を目指す。
 私にとって北穂は、とっても思い入れのある山だ。朝、上高地から歩き始め、空身で飛ばしていけば昼前には着くから、東京の自宅から計算しても1日弱で到着する。そんなに遠いわけではないけれど、最近は遠くなってしまっていた。ものすごく近しい気持ちがある分、なかなか足をむけることができなかった。
 約2シーズンに及んだ北穂高小屋での取材が終わったあとは、なにか理由がなければ行っちゃいけないような気さえしていた。無論、小屋のみんなにはそんな雰囲気がないのだけれど、取材中、無意識のうちに小屋のメンバーと距離を置いていた私は、取材が終わったあと、彼らとどう接してよいのか、近しく思っているがゆえにわからなくなっていたのかもしれない。

 南稜を登りながら思い出しだことは、いつも、一人で南稜や雪の北穂沢を登下降していたこと、小屋のメンバー達の好物(すっかりもってき忘れた)、小屋開けの緊張、山頂から見る四季折々の風景や、季節がダイナミックに変わる様、足立さんと登った滝谷やキジバハングなど。

 山頂から小屋に向かって階段を下りると、予想通り売店にやざきジョーがいた。足立さんもハヤカワさんも、義秀さんもいた。義秀さんとは、先代である「社長」(父・義治さん)の葬儀以来だ。

 私が北穂で過ごした時間から比べると、ごくごく短い時間であるけれど、みんなと話をして、当時と何も変わっていないと感じた。でも、実は、もっと長い時間彼らと過ごせば、確実にあの時から時間が経っていることも実感するだろう。

 涸沢に戻り、涸沢小屋のテラスでビールを飲んでいると、『ヤマケイJOY』編集部の大畑さんとキムカズさんが仕事で上がってきた。8/24-26に控えた涸沢フェスティバルの打ち合わせだそうだ。

緑の散歩道 2008,8,11
 今日は涸沢まで。
 がっちゃんは明神までしか経験がないとのことで、道すがらの緑に感動していた。彼女の仕事は草木を使って空間をデザインすることだから、いろんなことにインスパイアされるようだ。
 自然が作り出した、岩ごけを見て、「こんなものは人工的にはとても再現できないのよ」と言っていたが、確かに、岩ごけが再現できないだけでなく、その背景に前穂東壁がそびえていたりしたら、そりゃ再現できないもの、ココだけのものだろう。

 横尾でいつものように直さんと話をして、涸沢へ向かい横尾本谷に入ってくる。いつもの場所で、北穂方面の定点撮影をして、本谷橋で休憩。
 それから、涸沢へ向かって上がっていった。
 3週間前と比べると雪渓の雪はぐっと減り、ナナカマドの花も減っていた。

水力発電の小屋 2008,8,10
 午前中はどうしても外せない仕事があった。
 その後、大急ぎで準備をして新宿駅へ。途中、がっちゃんから入った携帯メールには、「この格好で表参道を歩いているとかなり浮いています」とあった。そりゃそうだ。
 あずさと松本電鉄とアルピコバスを乗り継いで、上高地へ。

 通称「山研(さんけん)」。正式名称は「日本山岳会上高地山岳研究所」。岳沢の登山口手前にある。宿泊するのは初めて。
 小屋の脇で小規模水力発電を行ない、その電力を小屋の一部で使用している。
 もうひとつ特筆すべき特徴は、古い山岳書が置いてあること。岩雪は創刊号からあり(近年のものは少数)、ほかマニアだったら喉から手が出そうなほどの初版本も多数。もっと時間をかけて読みたかった。
 

いつもの御宿 2008,8,9
 一昨日の晩の花火大会では、御宿の人口はいつもの10数倍に膨れ上がっていて、そこかしこで混乱が起き、それはそれは尋常でない状態であったが、あっという間に人はひけて、いつもの御宿に戻った。

 朝の波乗りをしたあと、千葉で一仕事して、そして夜には自宅へ。
 たまっているデスクワーク、自宅でしかできない仕事を片付ける。

甥っ子たちの夏休み2 2008,8,8
 波乗りのために朝5時に起きると、甥っ子達も起きてきた。
 家を3時に出てクルマを走らせてきたというカワグチくんは、すでに浜辺に着き、太鼓をたたいているというメールが入った。朝ごはんを食べていると、海から戻ってくるカワグチくんが見えた。手を振ると、部屋に上がってきた。

 甥っ子とサトシくんも私たちと一緒に海へ。

 波は小さいしぐちゃぐちゃだし数も少ないけれど、ときどききれいな波がやってくる。サトシくんも夫のボードでサーフィンにチャレンジ。
 甥っ子ふたりは、遊泳禁止時間なので、波打ち際で遊んでいる。

 その後、2回目の朝ごはんを食べる。カワグチくんは夫と一緒にSHOOTSへ。マイ・ボードをゲットしたカワグチくんは嬉しさあまりに、今日はずっと波乗りをするというので、ここでお別れ。
 私たちは、久しぶりに守谷へ行ってみることにした。
 海水浴場脇の磯で遊ぶ。大人はシュノーケルに夢中になり、交代で子どもの面倒をみる。子ども達は浮き輪で浮かんで、水中眼鏡で海のなかをのぞいたり、磯でカニやエビやヤドカリをつかまえて遊ぶ。

 ユキトは積極的に海に出て行くけれど、カズキはまだ怖いのだ。
 しかし感心することに、カズキは彼なりのステップアップを考えている。大人たちに連れられて、少しずつ海に近づき、最初はウチの夫につかまりながら、足のつかない海へ出て行った。そのうちに、サトシくんや私をつままえては一緒に海に浮かぶようになった。その後は、自分でバタ足をして移動することもできるようになった。そうなると嬉しいようで、「自分で動いた」と私たちに報告してまわっていた。

 大人は遊びつかれたけれど、子どもはまだまだ遊びたい。しかしあまりにもお腹が減ったので、午後2時ごろに勝浦のあまからやへ。
 その後、御宿に戻った。これでサトシ+ユキト+カズキの夏休みは終わり。もうおうちへ帰らなければいけない時間だ。まだまだ遊びたいと駄々をこねて、しまいにはふたりは半分ケンカをしながらクルマに乗り込んだ。あとはとーちゃんががんばって八王子まで運転するしかない。

 彼らを見送ったあとは、昼寝をして、夕方のセッションへ。
 部屋の冷蔵庫をのぞいても、カワグチくんのために残しておいたシュークリームはそのまま。彼はずっと海にいたのだろうか。中央あたりでカワグチくんを見つけて聞いてみると、昼寝をしたり本を読んだりもしたそうだが、ずっと波乗りをしていたそうだ。いくら若いとえ、たいしたものだ。

 相変わらず波はなかったけれど、波乗りをして、暗くなった頃に部屋に戻った。
 千葉の野菜と魚を食べて、9時過ぎ、カワグチくんは自宅に帰り、私たちは布団に沈んだ。

甥っ子たちの夏休み1 2008,8,7
 義兄のサトシくんと、彼の息子のユキト&カズキのオトコ3人は、八王子から車を走らせ、カーフェリーで東京湾を渡り、御宿にやってきた。
 夫は仕事が入ってしまったため、夜からの合流となり、まずは私と4人で海へ。

 甥っ子のふたりは小学4年生と幼稚園年長組。海はほとんど初めてで、水泳も得意ではないらしい……。しかし、長男のユキトはすぐに波になれて、浮き輪をしながら一緒に足のつかない沖までいって遊んだ。幼稚園生のカズキはちょっと怖がりだけれど、波がやってくると両足をそろえてきれいにジャンプし、その膝っ小僧を自分の胸につけるようなフォームをしたり、浜辺に向かって浮き輪を投げては走って取りにいくという遊びを考え出したり、していた。
 サトシくんに言わせると、カズキは体幹が安定していて、幼稚園ではいつも鉄棒や平均台などの見本を見せるのだそうだ。バネがあって運動神経がよさそうで、サトシくんや双子の弟である夫に似ている。

 何がそんなにおもしろいのか、打ち寄せる波にあきることなく、ふたりはほっとけばずっと遊んでいそうだった。

 夜ご飯を食べている頃に、夫が到着。
 今晩は、御宿の花火大会だ。最近夏に日本にいることが少ないので、私は花火大会を見た記憶がない。夫はいつも、ひとりor友人を呼んでみているらしい。
 御宿町の納税者としては、ぜひ見ておこうと今年は私も楽しみにしていたが、花火一発一発が税金に見えてきて、なんとも夢がない自分にあきれた。
 子ども達はベランダに椅子を出して眺めていた。

 写真は浮き輪を携え、真剣に海を見つめるカズキ。

報告会 2008,8,6
 ドライトマト作り、もっとすぐにできるかと思ったが、なかなか。天日に干して、今日で2日目。明日中にできないと困るのだ……。

 夕方までは自宅仕事。
 夜、カメットの報告会におじゃました。
 今回、かの地に立った彼らは、日本人にしては76年の日本・インド合同女性隊以来だから、実に30余年ぶり。ほかの外国人とあわせてもごくごく少数だ。インド人たちは、軍隊のトレーニングなどで頻繁に登っているようである。

 以前、カメットを一緒に登らないかと資料をもらったとき、上部の写真は何枚か見ていた。それから勝手に想像していただけなのだけれど(考えてみれば根拠なし)、下部もすっきりしていると思い込んでいたが、C3以上、意外といやらしい感じだった。
 おまけに天気もすっきりしない。地形的に仕方がなさそうだ。

 しかし、インナーラインを越えて、やがて東カメット氷河に入り、カメットの東壁が見えてきたときには、感動するだろうなあ。
 ロケーションはすばらしい。あまりにも魅力的な場所にある。そしてものすごくかっこいい山姿である。

 インナーラインに入る許可証が手書きなのには驚いた。
 報告会後、お酒を飲んで帰宅。

 ある登山家が自著で「登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない。」と」書いていた。まったくその通りだと思った。
 
 山岳遭難には色いろな性質のものがある。同じように人が死亡し人がケガをしても、その中味はそれぞれで、ときにはまったく異質である。

 K2のボトルネック付近の懸垂氷河が大きく崩壊し、多数の死傷者が出たという事故。これだけの死傷者が出たのにはさまざまな要因が絡んでいることが報道されている。これは、あまりにも痛々しい悲劇だ。いくつかの意味で、とてつもない悲劇であると思う。
 
 しかしこの懸垂氷河、写真で見たことのある人は多いだろうが、以前にも何度か崩壊したことがあるという。ある友人もK2登山を終え帰路のキャラバンについたとき、コンコルディアあたりで何気なくK2を振り返ると、あの巨峰であるK2のまるで三分の一以上が雪煙に包まれるような状態になっていたという。
 あのときも、ボトルネック付近の懸垂氷河が崩壊したといわれているそうだ。
 ひとたまりもない。

打ち合わせ+お帰りなさい会 2008,8,5
 夕刻、岳人で書籍の打ち合わせ。6時からだったけれど2時間半かかり、社を出たのは8時半。

 その後、大学山岳部の大先輩とかなっぷと3人で夕食。彼は、約1ヶ月前にカメットから帰国した。久しぶりの海外登山だった。カメット撤退の理由が理由だけに、当事者達から詳しいレポートを期待したいけれど、どうなるかはご本人達の意向次第なのでわからない。報告会ではもっと詳しく話を聞けるか。

 混沌と秩序、インドの空気が懐かしくなった。

 聖火が四川、成都に入った。
地震からの復興はまだまだ。しかし、今月末には日本の旅行業+報道陣100人近くが成都入りし、いつ観光業を復活できるかなど現地視察をするのだという(現地たってどこだかはわからない。観光地だけだろう)。

 デリーでは命をかけたハンガーストライキが続いている。
 知らなかったけれど、8/3に民主党の松原仁衆議院議員が現地を訪れて、ハンスト中のチベット人6人を励ましたのだそうだ。

 カシュガルで公安が襲撃されて32人が死傷した。また、日本人の新聞・テレビ記者4人が武装警察に拘束されて暴行を受けた。

 現在、水谷尚子さんの『中国を追われたウイグル人』を読んでいる。
 立派な人が世の中にはいるものだと、本当に脱帽させられている。

 本の内容も勉強になるが、彼女の視点、取材の姿勢がすばらしく、そこから多くのことを学んだ。
 水谷さんは学者であるが、学者でありながらジャーナリスティックな視線もあり、学者的作業とジャーナリスト的作業の両方を両立させながら、内容の濃い取材を続け、海外亡命したウイルグ人たちの話を纏めた。そこには強い信念と究極のバランス感覚がある。

 同世代の一流の仕事にため息。
 

恵比寿代官山 2008,8,4
 恵比寿は東京でいちばん好きな街かもしれない。以前の職場が恵比寿にあったこともあるが、そこに通ったのなんてわずか数年。けれどとても親しみのある街で、新旧混合の恵比寿は、落ち着く。

 午前中、自宅仕事。昼過ぎに代官山でかなっぷと待ち合わせ。遅いランチを食べたあと、細川さんのところへ。
 夕方、細川さんのところを出て……「夕立が来るに違いない」と、まだ夕立にあってもいないくせに、恵比寿のバールに避難。3杯飲んで駅前へ行くと、ちょうど今日、建物を覆っていたものが一切取れたようで、工事関係者たちが歓声をあげながらビルを見上げていた。
 なかなか、おしゃれじゃん。
 雑誌的に言うと、表紙デザインが固まった状態か? このあと誌面デザインも固まり、あとはいよいよそこの載せる記事と写真をいかに作れるか……というプレッシャーを感じているはず。
 オープンまで1ヶ月ほど。今度は、どんな店になるのでしょう?

 さて、昨日我が家ですごした「みんみん」(←あぶらぜみの名前)。
 夫が帰宅後保護し、ベランダに逃がした。しかし飛んでいくことはなく、私の大切なバジルの鉢と鉢の間で仰向けになってしまった。もう一度夫が飛び立つようにほどこすと、今度はベランダの床へ。
 今朝、5時に目が覚めてすぐにみんみんを見に行くと、ベランダの溝にたまっている水の上で仰向けになっていた……。よくよく観察するとまだ息がある。早速夫をたたき起こし、救出してもらった。一晩中水に当たっていたとしたら、羽が湿って、かなり冷えちゃったのではないだろうか。私が、壁で雨のなかビバークした晩はいつもツェルトがあったから、それよりもみんみんのほうがずっと辛かっただろう。
 我が家は1階なので、ベランダの柵を越えて、外側の地面に着地させることに成功。

 飛ぶことはないけれど、ゆるゆると歩いたり向きを変えたりしている。
 朝食後に見たときには、隣のKサキさん宅のベランダのほうへ歩いていった。あちらには小学生の男の子がいるから、みんみんに気づいてくれるだろうか。

 図鑑で調べた結果、みんみんは、アブラゼミのメスだった。しかし、アブラゼミは「みーんみーん」と鳴くのではなく、「ジー、ジリジリ」と鳴くそうだ。みーんみーんと鳴くのはミンミンゼミ。無知丸出しの名前をつけてしまって、彼女も迷惑だっただろうに。
 

朝一番の電話 2008,8,3
 今日の仕事開始時間は8時。その約1時間半後、電話がなった。出てみると、きりっとした電話口の声は、前職の大ボスだった。彼女は私が入局したのとほぼ入れ違いに事務局長を定年退職した。現役で仕事をご一緒したのはわずか2ヶ月足らずだけれど、その後もなにかと私たち事務局員の力になってくれた。とくにユネスコ、民間ユネスコ活動の生き字引のような方であり、かつ達筆家・名文家であったため、広報・出版の部署にいた私は、一緒に本を作ったり、原稿を書いてもらったり、接点が多かった。

 その彼女から10日ほど前に封書の手紙が来たときは、開封するのが、正直こわかった。チャーミングな独特の字体を見れば、一発で彼女だとわかったし、手紙の内容は拙著を読んだことにあるのも予想できたからだ。緊張しながら開封し、そこに書いてあったことに、救われる思いがした。

 今日の電話は、「朝日新聞に載っているわよ」ということだった。数日前に編集者から聞いていたので、私も朝、セブンイレブンに買いに行ったところだ。わずか3行の記事だし、そうか、世間はそういう風に出版を見るのかと(3行に書いてある内容ではなく)思う点もあったところだった。

*これについては、編集者も私も知っている記者の方が尽力してくださったのだと思うが、各紙とも書評欄は特別なシステムで紙面作りをしていて、「知り合いだから」と載せてもらえることはまずない。ほとんどの新聞に書評委員会があり、「めちゃくちゃハードルの高い紙面」なのだそうだ。

 「著者名が書いてないわね」と彼女は言っていた。何はともあれ、新聞に載っているそのことを伝えるために、朝から電話をくれたのだ。直接話すのは数年ぶりなので驚いたが、「声も聞けてよかったわ」と言っていた。

 小柄だけれど、凛として背筋を伸ばしたその姿は、とても存在感のある人だ。仕事に厳しいけれど、部下と仕事へ愛情をもっている人だった。信念の人。朝の電話で、気分が引き締まった。

 編集中の書籍ゲラに、著者のアカ転記と分量の調整が終わる。あとは未着の写真の手配と、出版社の編集担当のアカを待つこと。その間にもう一度素読みしておこう。

 昼過ぎ、ベランダへ行くと、シーツにセミが止まっていた。まったく動かないので抜け殻かと思ったけれど、違う。明日宿泊予定のアヤちゃんが使う大切なシーツなので、なんとかどいてもらいたいのだけれど、一向に飛ばない。死んじゃったのかな……?とシーツを部屋に取り込んだけれど、まったく動かない。シーツが汚れてもいけないので、取り外してどこかに飾るか・・・…と触ると、ブイーンと飛んだ。飛んで、ソファの足元部分に止まった。それっきりまた動かない。

 しばらく放っておこうと思った。ブイーン、ブイーンと音がしたので、セミが低い声で鳴いているのかと思ったら、携帯のマナーモードがうなっているのだった。
 アライからの電話だ。男の子だったら小さいときにセミ取りぐらいしただろうと思い(私はカマキリやカブトムシ、クワガタに走っていた)、「セミの生態について聞きたいんだけれど」と言って事情を説明したが、「わからん」と。

 アライの電話口の向こうにはなんとなく、夏休み的雰囲気が漂っているのがわかった。娘のニイナもアンナも夏休みになったからだな。昨日は夏祭りに行ったというし、来週は湖畔でキャンプなんだって。いいな。

 その後セミはカーテンに移動したので、いよいよ外に戻ってもらおうと窓を開けっぱなしにし、色いろ工夫したが、ずっとカーテンから動かない。私がつかもうとすると飛んでしまって、つかめない。夫の帰宅を待つか。
 ともかく夜だし、部屋の電気は消しておくことにした。

編集作業の1日 2008,8,2
 来週半ばまでに上げなければいけない編集作業、原稿執筆に追われている。
 今日は書籍の編集作業。
 著者が入れたアカ(訂正)をゲラに転記したり、スペース・デザインの関係上文章量を増やさなければいけないところを増やしたり、減らさなければいけないところを減らしたりしている。
 あわせて写真のチェック、差し替え写真の手配も進めている。
 冒頭から順番に初めて、まだ1冊の半分ぐらい。
 巻末のデータについては手間もかかるから、実際はまだ1/3も終わっていない。

 「読み物」(ドキュメンタリーや小説など)の編集と違って、今回のように写真や図を多用したハウツー本は、編集作業が細かくて、時間もかかる。
 ゆえに、読み物を編集するよりもギャランティは多くなるのだけれど(のはずだけれど)、それにしてもこまごまと面倒なことが多い。
 しかし、このギャラの問題。確かに読み物は編集作業的には少ないけれど(本文を流していけばよい単純な作りなので)、書き手の取材をバックアップしたり、相談に乗ったりと気苦労は多いはず(とわが身を振り返り、いかに編集者に負担をかけてきたか考えた)。
 だから、ハウツー本に比べてギャラは少ないといえども、目に見えない大変さがあるのだけれどなあ。

 一昨日、竹内洋岳さんが、11座目の8000m峰となるブロード・ピークに登頂し、昨日には無事にBCに帰還した。その嬉しいメールをもらったとき、実はご本人の登頂と同じぐらい、奥様が無事ちゃんと予定日に元気な赤ちゃんを産んだという報せが、あわせて書いてあったことが嬉しかった。さすが!
 14座完登者は世界にはそこそこいるけれど、竹内さんようなレベルの実力者が日本には少ないことが、日本の登山界のレベルを現しているのだと思う。
 14座は結果であって、彼のように8000m峰を無酸素で続けて成功させられるのはやっぱり実力なんだとつくづく思う。実はそう簡単なことではないのではないか。

ストックとザック 2008,8,1
 しばらく複数仕事を並行して続ける日々となる。書籍の編集、いくつかの原稿書きなど。
 昨晩執筆者に見てもらったゲラを見直しながら、全体を大まかにチェック。このあと細部を考えながら、初校ゲラにアカを入れていく。今回の本は読み物ではなくハウツー本なので、デザインや編集が複雑。その分アカの入れ方も複雑になってくる。

 原稿書きについては、構想を練って、執筆の準備をする。

 先日、穂高に行っていくつかのことに気づいた。
 ひとつはストックを使っている人が多いことだ。足に故障があったり、脚力が不足している人には有効だろうけれど、穂高のような山を登るときに、それ以外の人にとって果たしてそんなにストックが必要なのだろうか?とくに涸沢より上部は邪魔になるときのほうが多いのでは。
 第一に、岩畳の上をカンカンカンカンとストックを突いていく音が・・・・・・実は、耳に障った。若い人などは、ストックナシでもきちんと歩ける基本的な山の歩行技術と脚力を身につけるのが先決のように思う。ストックを使っていると、ストックのテンポでしか歩けずストレスを感じるときがある。

 また、ストックに関する別の話。
 登山を始めようと思っているある友人に聞かれた。
 ストックの先のキャップは外してはいけないのかと? 「外さずに歩行せよ」と書いてある技術書がいくつもあるらしい。私は不勉強でそれらを読んでいないのだけれど、もし外さずに歩行したほうがよいのであれば、そもそもストックの先っちょ(石突き)はキャップと同じ形状になるんじゃないだろうか。あのようにとがっているのには理由があるのだ。
 木道でストックを使う人が増えているからキャップをするようにという話を聞く。でも木道でストックって不要だよね。

 キャップをせよというのは、登山者が多すぎて、その全員がストックをついていたら、登山道を傷めるという理由なのだと想像したが、そもそも登山者が集中すること自体が登山道や山に大きなストレスが加わる。
 技術書に「キャップをせよ」と書くのはピントがずれているように思う。

 先日は、私のストックが後ろを歩く人にぶつかりそうになり注意を受けた。危険だからよくないことだけれど、そもそもストックワークは自分のからだの後ろにも運ばれるものである。それが危険となると、登山者が集中しすぎているか、そういうところではストックを使わないほうがよかったか、と考えた。

 私は週末や混んだ時期の山に行くことが少ないので、現状をよく知らないのかもしれない。

 もうひとつ、「へー」と思ったのが、雨ブタ型ではなくチャック型のザックをもっている人が多いこと。ガイドやリーダーなどは危急時に荷物が増えることもあるから、雨ブタ型のザックをもっているだろうけれど、初心者にとってはチャック型のほうがパッキングしやすいのだろうか? 私は雨ブタ型のほうがずっとパッキングしやすいけれど、慣れの問題?
 ツアースキーのときは板をつけたままザックの中のものを取り出せるようにチャック型を使うが、それとて日帰りに限るようにしている。

 うるさいことを言えば、チャックだって壊れることがあるかもしれないのだから、そんなリスクを抱える必要はないと思うのだ。それに雨が降っているときの荷物の出し入れはどうするんだろう? チャック型だと中味がずぶぬれだ。

 なんていうと、口うるさいヤツと思われるだろうな。でももっとも基本的なオーソドックスなことだと思う。
 登山について書いている者としては、そのマナーやルールなどを登山者達に知ってもらいたいとは思うけれど、否定的、排他的なトーンになるのは本末転倒、もっともよくないと思っている。なるべく前向きな方法で書けるよう考えたい。

 写真は7月22日撮影のもの。


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